2013年4月13日土曜日

#78 甦った鉄路

休日にしては少し早めに起床したところ、スマホに地震があったと表示されている。兵庫県でかなり大きめの地震が発生したようだ。テレビをつけて情報収集するも、比較的落ち着いている。阪神・淡路大震災と類似した時刻に発生というのが、緊張感を高める。

三陸新報の一面に、気仙沼のシンボルとなってしまった第十八共徳丸について、市議会で話合いがあったと書かれている。ここでも賛否両論、結論は出ていない。

相変わらず寒いが、さくっと身支度をして南気仙沼駅に向かう。駅と言ってもBRTのバス停だが...
気仙沼駅行のBRTが定刻で到着する。今日は道が空いているからのか、BRTならではのシビアな運行管理をしているからなのか…。席を埋めていた高校生が途中で下車してしまい、気仙沼駅に着くころには2人になってしまった。

盛まで乗継を運転手さんに告げ、乗換標を作ってもらうが、あいにく大きいお金しか手持ちがなく、窓口でと案内される。
盛行きの発車まで少し時間があるので、観光案内所でパンフレットや記録誌、ステッカーなどを物色する。
BRTを待っている人は、どちらかというと地元風ではない。朝のこの時間に県境を越える客は少ないのかも。
左側面:ホヤボーヤ、わんこ兄弟 右側面:むすび丸、オオフナトン、夢ちゃん
バスのコックピットはモニターが多数並び、驚く。
45号線を北上し、いくつかの「駅」に止まり、陸前高田へ。市役所仮庁舎前に、みどりの窓口とともに観光案内所、バス待合室が出来ていた。ここで若者が数名乗り込んでくる。
スタンドアロンのみどりの窓口
仮設の高田病院前を通り、小友へ。線路敷にはBRT専用道路の整備が進められており、小友駅にもBRTの駅舎が概ね出来上がっている。
2013年4月
2011年7月
BRTは大船渡市内へと入り、細浦、下船渡と停車する。細浦は岸壁も修復され、新たな建物も増え、道路もきれいになっている。
大船渡駅からBRT専用区間へ入る。先頭でかぶりついていると、自動的に専用区間へ一般車両の侵入を防止する遮断機が開いたり、信号が変わったりと、一般交通に対しBRTを優先させる仕組みとなっている。
見慣れた盛駅に到着。
昼食を調達しようと、サン・リアに向かう。以前侮りがたいと思って食べたハンバーガー屋がなくなっていた。移転したのかどうかよくわからないまま、パン屋さんでサンドイッチなどを購入する。

盛駅にはJRと三陸鉄道(三鉄)の2つ駅舎があり、三鉄側の駅舎ではふれあい待合室となっており、お茶の無料サービスや土産物の販売などが行われている。また、一角にはサンドイッチを売っているお店があり、ここで買っておけばと、悔やんでも始まらない。

記念切符を買い、入線の案内を聞いてからホームへと向かう。土休日にのみ運行されているサクラのラッピングがされている車両だ。この車両は被災せず、吉浜駅に回送され、長らく留置していた。
開業当初からの車両、36-100形
車内にもサクラ
大船渡の被災松で作られた記念切符
20名ほどの乗客で、ほどなく発車となる。記念乗車の方が半分、地元の利用客半分といったところ。
盛の街並みを見ながら、列車が動いているこの状況に、なぜか感無量となる。以前購入した、盛~陸前赤崎間の被災レール、多少は復活の役に立っただろうか...
ビッグプライス!
陸前赤崎、綾里(りょうり)、甫嶺(ほれい)、三陸と停車していく。ぽつぽつ乗降客がある。甫嶺駅などの築堤はコンクリートで被覆され、防潮堤としての役割も担っている。

終点吉浜に到着。写真を撮影する方々で賑やかになる。ここに留置されていた車両に、また乗ることが出来たことに感謝して止まない。
2013年4月
2011年7月
記念乗車の方はそのまま戻られるが、すぐに折り返さず、しばし吉浜の街を散策する。
吉浜は明治三陸地震津波以降、高所移転を成功させ、今回の震災でも行方不明者1名という結果を導いた街。自分にとって理想の取組と思っている場所である。

集落の中にある正壽院というお寺には、「嗚呼惨哉海嘯(かいしょう)」書かれた、明治三陸地震津波の犠牲者の名前が刻まれた石碑がある。
※海嘯とは津波のこと。
海岸部なども、順次工事が進んでいる。
少し海岸沿いを歩き、松林の中に入る。すこし高いところにあるからなのか、特に被災はしていなかった。潮害防備保安林の看板を見かけた。
とても気になる記述
林の中をブラブラしていると、海岸で工事をしている作業員の方とすれ違う。絶対に怪しいと思われただろうが、親切に集落までの道のりを教えてくださった。
集落に戻り、電池などを買い求めて吉浜駅に戻る。まだまだ時間があるので、本棚に入っている1985年発行の岩手年鑑などを読む。ちょうど三陸鉄道が開業(1984年)した時期なので、写真入りで特集が組まれていた。
三陸地方への鉄道建設のきっかけは、明治三陸地震津波にさかのぼる。非常に交通の便が悪かったのこの地方の復興のために、鉄路が必要となった。今でいうところの高速道路のようなものだ。
復興のために開通した鉄道が、また津波によって破壊されてしまう。非常に切ないがぜひ鉄路としての再開を願っている。
来春、釜石まで全線開通予定
最初は来た道を戻る予定だったが、それではつまらないので釜石行のバスに乗ることにする。吉浜からは私を含めた、鉄道が好きそうな雰囲気の4名が乗り込む。
かなりくたびれた感が...
バスは45号線をグイグイと進んでいく。いくつかのバス停で乗客をピックアップしながら、釜石の平田仮設バス停に。ここで数人乗り込む。足の不自由な方、若者、お年寄り...自家用車を利用できない人たちのために、公共交通は必須であると痛感した。.
リニューアルした釜石駅で、急ぎフリー切符を買い求め、釜石線の花巻行に滑り込む。適度な乗客、暖かな車内、つい眠ってしまった。
東北の日暮れは早い
遠野で乗客が入れ替わり少し混雑するが、新花巻で大半が下車。
花巻で1時間のインターバルのうちに夕食を取って、東北本線で一ノ関へ。
花巻駅
ロングシートの電車は旅情も何もないが、それは旅行者の勝手な思い込みだろう。地元にはこの車両があっていると思う。

一ノ関から大船渡線で気仙沼へ。文字通り、大船渡(盛)までの路線であるが、今は気仙沼止まりとなっている。2両編成のディーゼルカーに少しの乗客を乗せて出発する。
「ドラゴンレール」の愛称は、地図で路線をみると登り龍のように屈曲していることから。建設当時の我田引「鉄」の結果だそうだが...

出発からおよそ12時間。気仙沼に戻ってきた。
震災前のレベルには戻っていないと思われるが、こうやって三陸を公共交通で行き来することが出来るようになってきた。普段、自由に自動車を使っている身にとっては、趣味的な理由以外でその恩恵にあずかる機会は少ないが、地域の方々にとって移動の自由が確保されることは、とても大切なことなのだと思った。