2013年10月6日日曜日

#254 未来予想 -80年-

変な時間に眠りについたため、結局起きたのは9時前だった。急ぎ準備をして出発する。天候は微妙だが、天気予報を見るとなんとか耐えることが出来そう。3号機で出撃する。

陸前高田の海沿いを走っていると、ツール・ド・三陸の車列とすれ違う。レーサーだけでなく、マウンテンバイク的な車両も散見される。
途中末崎で、以前から気になっていた石碑を見る。明治三陸地震津波の記念碑だった。
大船渡に入り、ひとまず盛駅へ。毎年恒例の「3鉄まつり」が開催されている。岩手開発鉄道、三陸鉄道、JR東日本で3鉄。
2年前の3鉄まつりでは岩手開発鉄道のみの1鉄だったが、4月に三陸鉄道が運転を再開したので、今は2鉄。JR大船渡線はBRTで運行を再開したが、「鉄」というには物足りない。果たして、3鉄になる日はやってくるのだろうか...
大船渡市役所のT係長に少し声をかけ、欲しい物品もたくさんあったが、足早に会場を後にする。既に11時になろうとしていた。

45号線をひたすら北上する。気温は暑くなく寒く無くでちょうどいい。途中山田町で餓死寸前まで追い込まれたので、道の駅でわかめラーメンを食べることに。
エクストリーム・リーズナブル
まだ目的地に到達していないのに、既に13時。気持ちは焦るが、3号機では無理は出来ない。
宮古の街を抜け、ようやく田老に着いた。
街の入り口にある昭和三陸地震津波の表示
昭和三陸地震津波により900名を超える犠牲者がでたこの街は、津波を防御する巨大な防潮堤を築いた。今回の津波は防潮堤をはるかに超え、街の大部分が失われてしまった。防潮堤とともにあったこの街、一度はきちんと訪れてみようと思っていた。
2011年7月
特にここという場所を決めていたなかったので、まずは旧田老町役場を訪問する。
津波防災都市宣言のまち
宣言の趣旨
關口松太郎翁の像
役場に隣接する場所に、常運寺という寺があったのでお参りをすることに。
丁度ご住職がお見えで、声を掛けていただいた。缶コーラをいただき、しばしねまることになった。
自分の出所や今携わっている仕事のことを話した。ご住職は、人命が何にもまして大事だから、今回の津波を防御できるような高い防潮堤を築くべきと持論をお話された。改めて、生命を守ることが一番大事なのだと認識した。また、この寺は明治の津波で流出し、地元の方々が材料を集め、高台に再建したとのことだった。
自分の人生のことなどを話すと、人は生まれたときから苦に立ち向かわなければいけないと話された。また、自分は100人の仲間がいたら、100人の敵がいて、仲間が1人増えたら敵もまた1人増えると。うーん...しかし、ご住職には、紀宝の師匠と同様、自分の心の内を見透かされているような気がする。他にも、震災当日のこと、その後のこと、今のこと、そして人の心。ここには書けないお話をいろいろ伺った。
しかも、ちょいワルなご住職は自分の1号機と同じマシンを所有されているとのことだった。「また来なさい」とのお言葉、間違いなくまた来ると思う。

隣接する墓地には、津波による犠牲者の碑が散見された。今次津波による犠牲者の真新しい碑もあった。もうこれ以上ここに石碑が増えることは願わない。
昭和の碑
明治と昭和の碑
東日本大震災の碑
少し街を走ってみることに。津波防災の先進地だけあり、その街区は特徴を持っている。
曲がりやすいように、角のとられた交差点
防潮堤からまっすぐに伸びる道
コンビニで少し休憩をする。ペヤングヌードルのレアなエディションを見つける。
2年前に寄った防潮堤から、また写真を撮ってみる。しかし、その光景は殆ど変化していなかった。
張られていた看板を目印に、近くにあるテントに立ち寄る。天空を泳ぐさけ幟づくりの会が主催する写真展が開催されていた。
年配の男性が話しかけてくれた。そして田老の街のことを説明してくださった。本で予習はしてきているが、改めて街の人から話を聞けるのはうれしい。特に昭和三陸地震津波の後にこの街を創ったともいえる、關口元村長の説明はとても熱が入っていた。
關口翁の功績として、万里の長城とも言われる防潮堤(防浪堤)の整備に注目が集まるが、産業の育成にも力を入れていた点を強調されていた。

自らの仕事の話をすると、氏は原型復旧とソフトの充実を主張されていた。確かに、田老の防潮堤は今でいうところのL1対応で建設された。しかし、最新のシミュレーションはそれを上回る数値をはじき出している。奥尻の話にもなり、こちらも本気モードで直球勝負をすることに。こうやって、被災された方と議論をすることは初めてだった。
三重のことも話をした。あまりにも短い津波到達時間、氏は集団移転以外の道はないだろうと話された。自分も同じように思っている。そして、住職と同じく、長は強いリーダーシップを持たなければならないと語られた。

關口翁のような、ハードだけでなく、ソフトも踏まえ、かつ街の未来までも見通した計画策定能力、決断力、行動力、熱意を持って、これからの仕事にあたりなさいねと、重すぎるミッションを課せられてしまった。果たして自分は第二の關口翁になれるのか...しかし、それは南海トラフの地震が来る前に成し遂げたいと思う。

日が傾き始めたので、急ぎ街を見る。
遺構として保存予定のたろう観光ホテル
今次津波の到達碑
損傷した防潮堤
堤名板
設置の経緯などが刻まれた石板
内側の防潮堤は殆ど損傷が見られない
田老の防潮堤の再整備
昭和35年のチリ地震津波とは異なり、東日本大震災では街を守りきることの出来なかった防潮堤。その存在を否定するような論調も見られたが、明治、昭和と多数の犠牲を払ったこの街が選択した道は、決して間違ってはいなかったと思う。ただ、ハード以外にも取り組まれていた様々な努力を凌駕する津波が来てしまった。
次に津波が来るのはいつか分からない。しかし、またL2津波が来たとしても、その時は犠牲者がセロになっていてほしい。もうこれ以上石碑はいらない。

帰路、小腹がすいたので大槌のマストでたこ焼きを食べていたら、相模原のジャイアンことH氏から電話が。帰りに立ち寄るよう命じられる。

大船渡のSGでは、宴会で盛り上がっていた。自分も加えていただき、いろいろ談笑する。21時には散会し、理事長室にいたF氏と、H氏と3人で少し話をする。なぜ今日自分を呼んだか?それは仲間だから、と聞いたときは、うれしくて鳥肌が立った。
H氏が部屋に戻り、F氏と二人で話を続ける。まるで長く付き合っている友人にように打ち解ける。

大船渡に派遣されていた時と、今と、自分の居る目的が少し違っている。大船渡にいるときは、仲間を作りたいし、被災地の役に立ちたいという想いが前面に出ていた。今もその気持ちは強いが、いずれ来るだろう南海トラフの地震に対し、三重の未来をどうするべきか、と考え続けている。
しかし、一人では何もできない。気仙沼でもこうやって仲間をつくる努力を、もっともっと強めないといけない。