2013年8月25日日曜日

#212 二度あったことは、三度あってはならない

部屋が暑くなって目が覚める。カーテンを開けると、目の前には太平洋が広がっていた。昨日早々と寝落ちしたので、6時には起床する。スマホの画面上部には、久しく見覚えのない「1x」の表示が。LTEどころか、3GもNG。
展望風呂で景色を堪能し、朝食を摂って出発する。まずは旅館近くの黒崎へ。
北緯40°のモニュメント。男鹿半島と同じ。
黒崎灯台
再び行き来た道を戻り、田野畑村の北山崎へ。時間も早かったので、お客さんはまばらだった。
驚異的絶景
穴、穴、穴
一眼レフで熱心に撮影しているおんつぁんから話しかけられた。北山崎をめぐるサッパ船は一人では乗れないので一緒に行かないか?と誘われたが、成し遂げなければならないミッションがあるのでお断りする。サッパ船も非常に魅力的なんだが...
少し話をする。青森からやってこられたそうで、今日は朝焼けがとてもきれいだったとのこと。しまった、もう少し早起きすればよかった...

海岸線を北上、再び普代村に入る。奥尻島によく似た風景。しばらくして、太田名部の集落へ。明治、昭和と2度の津波で被災した村を守るために、当時の和村幸得村長が建設を決断した。その高さは15.5m。結果は、背後地を完璧に防御した。
海側
山側
守られた街
スケジュールの都合から一旦離脱、普代水門を抜け、普代駅へ。
立派な駅舎
嫁さんは見つかったのだろうか...
併設の売店を物色してから、構内へ。数名が列車を待っている。
ひとまず久慈へ向かう。
うれしい硬券
美しい車窓
被災後に復旧した線路
三鉄久慈駅
たくさんのお客さんが待つ駅前からバスに乗り、小袖海岸へ。途中駐車場のある停留所から次々に乗り込んでこられ、最終区間では立客もいっぱいになった。以前も通ったころのある隘路は、一般車両の通行が禁止されている。

北限の海女で有名...というより、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台、袖が浜として有名な小袖海岸に到着。以下画像で。
宮城では見ることのない鉄壁の防潮堤
ガイドさんが見どころを案内
中央は夫婦岩。三重よりでかい。
有名な坂
津波襲来の碑
人、人、人!
おなじみの「まめぶ汁」
北鉄のヘッドマーク
普段は静かな漁港なのかも…
久慈市街と小袖海岸を結ぶ船。船籍地は女川...
主人公が疾走する防潮堤
北限の海女さんの実演
美しい映像に魅せられる「袖が浜」も、その背後には強固な防潮堤が控えている。防潮堤が小袖海岸の魅力を失わせたのか?答えは否だと思う。そして、防潮堤があったとしても、たくさんの海の恵みが、浜の人たちにもたらされていると見受けられた。

満員のバスに揺られ、久慈駅に戻る。乗り換え時間は7分。しかし出発が既に5分遅れてしまう。時計が気になるが、もはやあきらめの境地に入っていた。
駅までまもなくの頃、若い女性が運転手さんの元にやってきた。どうやら自分と同じ列車に乗る予定だ。機転を利かせてくれて、駅舎に近いところでバスを止めてくれる。ここから二人で猛然とダッシュ!そして、係員の方の機転で、発車ギリギリで滑り込むことが出来た。
3両編成の列車は団体客で満員。立ち席は厳しいものの、こうやってお客さんがたくさん来てくれるのは喜ばしい。小袖海岸で買い求めた塩うにとわかめのおにぎりを食べる。
列車は普代に到着、車掌さんに丁重にお礼を言って下車。「乗れてよかったですね!」とおっしゃっていただき、大変恐縮...。
普代駅名物こんぶソフト
しばし一服し、普代水門へ。今次津波は高さ15.5mの水門を超えたが、背後地の浸水は最小限に食い止められた。
上流側
下流側
陸閘
水門の前浜
水門の上流側
震災後に建てられた顕彰碑
以前から設置されている津波防災之碑
「二度あったことは、三度あってはならない」という、和村元村長の言葉が重い。

引き続き、太田名部の集落へ。集落全体を撮影できるポイントを探していたら、小屋で作業をしていたおんつぁんが手で「×」印を出し、この先は通行止めと合図してくれた。せっかくなので、防潮堤のことなどいくつかお話を伺うことにした。
防潮堤建設時はまだ働いていなかったそうだが、太田名部の住民は賛成、本村(普代村中心部のことと思われる)は反対という状況だった。今回の津波で被災しなかったことを考えると、施設があってよかったとのこと。身近で犠牲になられた方もみえたそうだが、防潮堤外側に荷物を取りに行かれた結果、とのことだった。
防潮堤があっても避難をされたのか、という質問には、当然という答えが帰ってきた。「てんでんこ」というセリフも出てきた。一つの懸念がここで晴れた。
また、宮古市田老の街づくりについては、被災前から懸念していたとも仰っていた。

津波には個性がある、と東北大の首藤先生が仰っていた。太田名部の防潮堤が今次津波に耐えたのは、漁港の防波堤で軽減されていることもあるだろうし、様々な条件が重なった結果だとも考えられる。中には逆の結果になった地域もあることと思われる。
ハードに100%はないことは十分に理解している。しかし、ここではハードのお蔭で被害が大幅に軽減され、限りなくゼロだったのも事実である。

近くに明治三陸地震津波の遡上高を表示しているサインがあるから、と教えてもらう。
海を眺められるような場所ではない
太田名部の漁港
沿岸を南下し、再度田野畑村に入るころに雨が降ってきた。
奥尻っぽい風景
やや濡れてしまい、一旦田野畑駅で避難する。丁度ツアー客がやってきて、地元のガイドさんが説明していた。被災直後には、電気よりも水がありがたかったとお話されていた。
津波到達地の碑
雨が上がった隙に出発する。45号線に入り、岩泉に入ったころには雨脚が強くなってきた。このまま走り続けることは困難になり、木の下で雨宿りをしながらカッパを着る。最初は持ってくるのを止めようかと思っていたが、カバンに忍ばせておいて正解だった。

宮古市に入ったころには前が見えなくなるくらいになり、危険な状態になってしまったので、三鉄の摂待(せったい)駅で避難する。案内地図に「津波大石」を見つけ、雨が上がってから見に行くことに。
しかし途中の橋が流出しており、見に行くためには渡河する必要がある。増水の危険とガソリン残量の警告灯が点いていることを鑑み、やむなく中止する。
←海       津波大石↑
後で知ることになるが、大石は慶長の三陸地震津波で流されたもので、今次津波でも同じような位置まで岩が流れてきたとのこと。

ガソリン残量を気にしながら、スタンドを探しに田老へ向かうが、なんとお休み...かなり慎重に超エコドライブで宮古の市街へ。開いているスタンドを見つけ、ガス欠前に給油することに成功した。そういえば、16年前に三陸に来た時も、開いていないスタンドに困窮した覚えが...

既に時計は17時。このまま南下を続けることに。
宮古市内で見つけた明治と昭和の津波記念碑
宮古市内の1960年のチリ地震津波記念碑
穏やかな山田湾
雨にたたられることもなく、暗くなった45号線をひた走る。大船渡に入ると、もう帰ってきたような気になってしまう。20時半過ぎ、長かったツーリングも終わりを迎えた。